フモレスケ(シューマン)についての雑記 | ブログ|音楽家のしごと塾

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フモレスケ(シューマン)についての雑記

 

IMG_1092こんにちは。おんじゅく代表 のじま えみ です。

2020年2月16日(日)第8回ブリランテコンサート(@響堂ホール)にて、

シューマン作曲フモレスケを演奏します。

 

それに先立ち、コンサートのプログラムノートとして、

また自分の音楽勉強の備忘録として、

シューマンのフモレスケについて感じたあれこれを綴りたいと思います。

 

■あのころの楽しさを求めて

フモレスケは1839年、ロベルトがクララとの結婚についてクララ父との壮絶な闘いの最中にあった頃に作曲されました。同年には、私の大好きなアレベスクはじめ、花の曲や3つのロマンスなど数々の名曲を作曲しています。

 

まず、フモレスケを選曲した個人的な理由から。数か月前「最近笑ってないね」と身近な人に指摘されたのをきっかけに、自分の心の状態を省みてみると、なるほど、「子供~20代前半くらいまでは、大口を開けて腹の底から笑ったりしていたよなぁ。」「あの頃感じた面白さを、めっきり感受できなくなっているなあ。」と思い至ったのです。そこで単純ながら、フモレスケ?ユーモレスケ?ユーモア!!みたいな拙いノリで(笑)、もっと楽しく生きるためのヒントが欲しくて、この曲と数か月間向き合うことに決めたのでした。

 

しかしながら、しばらくこの曲と向き合ってみて、どうも違う…そう、シューマンのユーモアは、私が求めた屈託のない面白さとは違うものでした。それはどちらかというと、松尾芭蕉の俳句論であり人生哲学でもある「かるみ」に近いものだと私は理解しました。すなわち、悲惨な世界を軽々と生きていくということ。根底に漂うのは、実は憂鬱なのです。

 

ここで、私の師がかつてレッスンで言っていた言葉を思い出しました。「美という言葉の90%以上は、醜悪の醜でないといけない。」人間は醜い要素のかたまりであり、汚いがデフォルトなのだと、師は教えてくださいました。その意味を今ようやく消化できつつあります。フモレスケのデフォルトの感情も「このどうしようもない世界!!(嘆き)」というメランコリーだと思うのです。思えば、キリスト教の原罪、仏教の一切皆苦、ニーチェやワーグナーが熱狂したショーペンハウアーのいう共苦、西田幾多郎のいう「哲学の動機は深い人生の悲哀でなければならない」という言葉、いずれも同じことを言っています。うーん考えてみれば、ネズミに耳を齧られて三日三晩泣き続け青く染まってしまったドラえもんもそうだなあ(笑)

 

さて、我々は「醜悪な世界」をなんとかやり過ごそうと、ユーモア=可笑しみを求めるわけですが、私はフモレスケにみられる可笑しさには3種類あると感じました。

1酒乱の享楽(お酒に酔っている間の万能感・幸福感。)

2ドン・キホーテに生じる笑い(本人は真面目だがそれを見ている周りがクスっとくる。)

3目新しさ(ここでそうくる!?というワクワク感、ポジティブな裏切り。)

1と2はある種の痛々しさが伴う可笑しさですね。中でも1は自ら日々実践していることなので(笑)、(因みにシューマンもお酒で憂さ晴らしをしていたようです。)曲中のそんな部分に違和感もなくスーッと入っていけるのは年の功か、怪我の功名か…

 

ところで、私が安易にユーモアと混同したフモールの概念とは如何なるものものなのでしょうか。西原稔先生の名著「シューマン」によると、『われわれの、すばやい運動を突然、われわれのものでない運動に変えてしまう、魂のめまい。』とのこと。(西原稔「シューマン」音楽之友社より)そういえば、シフの演奏するフモレスケには、随所にめまいを想起させる表現があります。サルトルの小説「嘔吐」で、主人公が自分の認識に変革が起きたときに嘔吐した、あの感じなのかもしれません。私は、アニメや漫画で異世界へワープするときにはよく空間が歪みますが、その感じに近いのではないかと理解しました。シューマンのイメージする異世界とは…

 

■シューマンの音楽が起動する哲学的問い

さて、シューマンは1828年からライプツィヒ大学に法科の学生として在学しました。その間、法律から哲学へと道を曲げ、カント・フィヒテ・シェリング等に取り組んだといいます。シューマンの音楽に触れていると、「この世界っていったい何だろう?」というような哲学的問いが湧き出てくるのはそのせいでしょうか。シューマンの音楽では、そうフモレスケでも、「現象(目の前の認識しうる現実)」と「彼岸(天国的・イデア的なもの)」を行き来します。(カントのいう「物の経験」↔「物自体(への憧憬)」あるいはフィヒテのいう「自我」↔「非我(への憧憬)」とも言い換えることができるでしょうか。)それが、前記した、めまいを引き起こす異世界へのワープだと考えます。

 

それともう一つ、彼の音楽と戯れていると、フランスの哲学者ジャック・デリダが「差延」と呼んだ概念を思い起こさせます。これについて説明するのは残念ながら私の手におえないので、日本でも人気の哲学者マルクス・ガブリエルの著書からの引用を最後に載せておきます。興味のある方は参照してください。

デリダによれば、時間は未来から過去に流れるのです。さらに時間にはパラドックスがあるといいます。つまり、過去、現在、未来のない現在にたどり着くことはないのだということ。時間の最小構造、最小単位というものにはたどり着くことはない、つまり現在というものは、常に、存在しないに等しい、とデリダは言います。

 

要するに、認識が細かく分解していくという事をいっているように思うのですが、フモレスケを弾いているとそんな感覚に陥ります。楽想と楽想の間に因果関係が感じられないといったような…

これについては、ガブリエルが「歴史はない」というところの、

道元が「灰は(薪を燃やしたものではなくて)灰でしかない」というところの、

パンセが「昨日の私は私ではない。彼女もかつての彼女ではない」というところと通じているように思います。物事が連続しているというのが幻想なのではないかということを、フモレスケを弾いていても感じるのです。しかし完全に楽想と楽想との間に因果関係がなく、それぞれが根無し草なのではなくて、作品全体には、彼と同時代のドイツの知性ヘーゲル、ヘルダーリン、シェリング仲良し3人組の合言葉になっていた「ヘイ・カン・パン」=「一つですべて」が確かにあることを感じるのが、これが芸術作品という体裁を保っている所以でしょう。

 

なんだか雲をつかむような話になってきましたが(汗)、もうすこしお付き合い下さい。

 

■虚飾のない語り口

シューマンの曲は発表当時、わかりにくいという評価を受けたことも少なくなかったようです。そう。わかりにくいとか、錯乱と誤解されやすいリアリズムが、彼の曲にはあります。シューマンのフモレスケにおける語り口は、心のありのままの状態を、そのまま音に写したようです。それに対して、例えば「献呈」のメロディーは、演説に例えると(実際に歌詞がついているわけですが)きちんと相手に伝わるように、効果的な言葉づかいが練られている印象を受けます。それに対してフモレスケのそれは、モゴモゴとこう言っていたと思ったら、言い切る前にふーっとどこかへ行ってしまう、まさに心のもやもやした状態そのままと言ってよいものです。そういう人との会話は、きっと成り立たないでしょうが(笑)、虚飾がないという点で、私は好感と親密さを持ってこの曲に入り込むことができます。

 

■おわりに

フモレスケのコーダの、濁りを回避できない左手の16分音符、そしてそれに鉄槌をくらわすような右手の半音下降(受難を意味する)は「このどうしようもない世界!!」という心の叫びと同期します。コンサートでは、狂おしく激しく、気持ちをぶつけていきたいと思います。出演は4時半ごろの予定です。ご都合よろしければお越しください。

さて、ここまでフモレスケについて自分が感じていること、日々の生活で感じていること等を綴ってきましたが、年中「このどうしようもない世界!!」と憤怒しながら、涙を浮かべ半笑いしてこの後の人生を過ごしていたら、なんとも悲惨な最期を予感してしまいます(苦笑)(シューマンやニーチェの最期のような…)シューマンの音楽に心酔していても、同じような生き様はあまりにきつく、望むものではない、、、では、自分はどう生きたいか。

そうだ!ドラえもんだ!

デフォルトは哀しみ(何しろ全身真っ青!!)でありながら、普段はそれを忘れて笑顔でいられる。のびた君をはじめとした周りの人間に巻き込まれたり、自分の得意技(ポケットから道具を出す)を仲間や社会の為に活かしたりしながら、どら焼きに享楽する。時々ネズミに出会ってパニックになるけれど…。 私はこれから、そんな人生を歩んでいこう!  と思い至ったところで、雑記を終わります。

お付き合いくださりありがとうございました。

今日も素敵な音楽を奏でましょう♪

(差延について↓)

『差延とは、まだないが先=未来にあるものと、現在起きていることの間に要素間の違いがあるということだ。つまりこうだ。文を終えようとしている。これで終わった。文の始まりを口に出しはじめた時に、「文を終えようとしている」と言った。文を口に出しはじめたら、文の終わりはまだなかった。しかし、文の終わりを考えないで文を口に出すことは無理だ。なぜなら文にならないからだ。存在しない文の終わりは、存在しないが文に構造を与えるのだ。存在しないもの、つまり未来が、現在起きていることに構造を与えているのだ。』

『一分をみてみよう。一分間はまた過去、現在と未来によって構成される。過去、現在、未来のない現在にたどり着くことはあるのだろうか。~一部省略~時間の最小構造、最小単位というものにはたどり着くことなく、常にそれをより小さく分離することができる、というわけだ。現在、というものは、常に、存在しないに等しい。それが時間の問題を説明したデリダの論点だ。』(「マルクス・ガブリエル欲望の時代を哲学する」NHK出版新書Ⅱ章より)

——–2020.2.18追記———

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このような機会に感謝し、今後も精進していきたいと思います。


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