アンドレイ・ガブリーロフのピアノリサイタルを聴いて | ブログ|音楽家のしごと塾

ホーム ブログその他コラムアンドレイ・ガブリーロフのピアノリサイタルを聴いて

アンドレイ・ガブリーロフのピアノリサイタルを聴いて

2020年11月15日武蔵野市民文化会館大ホールで開催されたアンドレイ・ガブリーロフのピアノリサイタルは、

ひりつくような哀しいhの音で始まった。

ショパンのノクターン。

観客は彼の音楽に共苦したように、控えめな拍手を送った。

(あの哀愁漂う音楽の後に、威勢の良い拍手を贈ることは困難だ。)

その直後、彼は客席を振り向いて一言。

「ダイジョーブ?」

会場がわっと和んだ瞬間だった。

この人は、日本の松尾芭蕉のような、茶目っ気のあるペシミストだなと思った。

本当に素晴らしいリサイタルだった。

このところ曇りがちな私の心を、浄化してくれた思いがした。

彼の演奏の何が、魂の浄化をもたらしたのだろう。

私は、あのニーチェやワーグナーが熱狂したという、

ショーペンハウアーの「共苦」の哲学を思い出していた。

ひょっとしたら、彼の演奏によって、

ショパンの苦しみ、ガブリーロフの苦しみ、私の苦しみ、聴衆の苦しみが一体となる経験をしたのではなかったか。

■音楽=醜悪であるという驚き

私の尊敬する師が教えてくれたこと。

「音楽は美しいものを描こうとしているのではない。描いてるのは、醜悪なものなのだ。デフォルトは美ではなく、醜の方だ。」

隠されていた真実を知ってしまったような興奮を覚えた。

当初は、なかなかその意味するところを理解できなかったが、

音楽の勉強をしながら、

哲学や、文学や絵画といった音楽以外の芸術の評論等をつまみ食いのように読んだりして、

今は本当に、その通りだと思っている。

音楽=醜悪 の意味するところを、自分なりに咀嚼した言葉で書いてみよう。

はじめに、芸術は真実の置き換え、あるいは変形である。と考える。

ここでいう真実とは、「この世界そのもの」という表現しか、今の私にはできない。

さて、この世界は醜悪なものに満ちている。

戦争、疫病、飢餓、虐待、格差。

一見安穏と日本で暮らしている私も、醜悪さの只中にいる。

自身の内面や、すぐ身の回りに渦巻く、

不条理や悪しき感情の存在を、嫌でも日々感じながら過ごしている。

キリスト教が想定している原罪や、

ブッダが「一切皆苦」を出発点にしたこと、

聖徳太子が「世間虚仮・唯仏是真」と言った理由も、このあたりにあるのではないだろうか。

さて、これで先ほどの概念が説明できた。

芸術は真実(=世界)の置き換えとするならば、

芸術=世界

世界=醜悪

ならば、

芸術=醜悪 となるわけである。

■醜悪なものを聴くことで魂が浄化する

さて、ここである疑問が湧いてくる。

「醜悪さを表現して、結局何をしたいのか?」

この疑問にヒントを与えてくれるのが、冒頭に書いたショーペンハウアーの哲学だ。

リストのピアノ作品をレパートリーの中心に置いてきた私が、

ニーチェやリストの娘婿ワーグナーが夢中になったというショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」に興味を持つことになったのは、当然の流れだったかもしれない。

ショーペンハウアーは、苦しみは世界そのものの発露であると考えた。

そして、苦しみを(例えば音楽を媒介にして)「共苦」することで世界と一体化し、人間は苦しさから解放されると考えたのだ。

音楽に並々ならぬ情熱を持っていたニーチェやワーグナーが、

「音楽は魂を浄化する」のだとも読める彼の哲学に飛びついた気持ちはわかる。

苦しい時に自分だけじゃないと思えるだけで楽になることは、

日常によくある事なので、

共苦によって救われるという彼の哲学は、哲学を専門に勉強したことがない私にも理解しやすい。

さて、救われるといっても、残念ながら「永遠に」というわけではない。

共苦によって楽になった心も、

苦しみが根絶することは死をもって以外には不可能なので、また苦しくなる。

よって、不断に共苦が、音楽が、必要とされるという事なのだ。

3歳でピアノを始め、30年来ずっと弾き続けている私のモチベーションの源も、

彼の哲学で説明できそうだ。

ついでに言えば、昨今の「音楽は不要不急」という言葉は、

私には当てはまらない。

私は醜悪であるが故に、音楽が必要なのだ。

■美とは

さて、ここまで苦しいだの醜悪だのと、陰鬱な言葉が続いたので、

「美」について書こうと思う。

音楽は確かに美しい。

誤解がないように言っておきたいのだが、

音楽は醜悪なものを描いているのだとはいっても、

「美しくない」と言っているわけではない。

つまりこういうことだ。

例えば、連続していなければ切断がありえないように、

美がなければ醜悪もない。

芸術=醜悪は、芸術=美を含意している。

では、普通に私たちが日常芸術に対して思い浮かべるように、

「芸術は美しい」でよいではないか。

なぜ、デフォルトが美ではなく醜なのか。

その答えとして、松岡正剛氏のこんな一文を参照したい。

「共感も同情も、その深部においては「共に苦しんでいる」ということが発動しているのではないか。われわれは自分よりも相手が優秀であったり成功したりしていることに共感するよりも、共に似たように苦悩をもっているということに共感を示すのではないか。」

(松岡正剛「観念と革命」角川ソフィア文庫P165より引用) 

それで足りなければ、樫村愛子氏が紹介した、精神分析の大家ラカンや文学研究者キャサリン・ベルシーによるこんな一文もある。

「ラカンは、最も詳細に美について説明した『セミネール七巻』で、「静物画は、その中に前兆、終局、展開、腐敗といったものを見せると同時に隠すことによって、美を時間的な関係との関数として私たちに示すのである」と指摘している。これについてベルシーは、完璧な瞬間に描かれたミルク、果実、オレンジなどが快感を与えるのは、その瞬間が続かないことを私たちが知っているからであると補足している。」

(樫村愛子「ネオリベラリズムの精神分析」P139より引用)

演奏家は、美も醜も表現するが、

どちらかといえば、美よりも醜の印象を漂わせるべきなのだろうか。

共苦の媒介者として。

ガブリーロフの素晴らしいリサイタルを聴いて、そんなことをふと考えてしまった。

ピアニストの端くれとして、今後は、舞台上で嬉々とした笑顔を見せまいと思う。

次のコンサートでは、松尾芭蕉のいう「かるみ」の心境からにじみ出るような、

微笑を浮かべよう。


“アンドレイ・ガブリーロフのピアノリサイタルを聴いて”へのコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です