
トーマス・マンの名著「魔の山」は、物語のラストでシューベルトの音楽が重要な役割を果たす。そんな事もあって、今日はシューベルトの最後の三つのソナタを、マンの魔の山と絡めて考察してみたい。
第19番ハ短調D958 第20番イ長調D959 第21番変ロ長調D960
私がこの3作品に対峙する時の気持ちは、主人公ハンスが危篤者達に対峙する時の気持ちと同じだ。ハンスは、彼らを大いに敬うべきで、ほとんど神聖とまで思っている。なぜなら『死に親しんでいる人間は、無思慮な世間の、無常で残酷な言動、つまり野卑に対しては神経質に、鋭敏にならざるをえなくなる』(※1)から。
なんといっても、この3作品は、シューベルトがこの世を去る数か月前に、一気に書き上げられたのだ!敬意を払い、耳にしてみよう。夭逝の天才、その最後の作品に、調和や救済があればよいのだが。
しかし、その期待は裏切られる。
それは、怒り(19番)、高揚(20番)、そして諦念(21番)だ。
(大まかな印象で曲番を記載したが、各作品の中にも、それぞれ3要素が現れる。)
彼の怒りの原因は解決しない。
高揚した気分は急降下を伴う。
諦めた男に、救いの神は微笑んだのだろうか?
より詳細にみていこう。
幸せな気分は、暴力的に遮られてしまう。
怒りのパワーは凄まじい。
20番イ長調ソナタの2楽章中間部のエピソードは、ほとんどパニック状態だ。
英雄的かと思えば、途端に自信を失い、芋虫のように矮小化する。
美しいメロディーは、空虚さを伴う。
それもついに接ぎ穂を失い、絶句。思いは宙づりにされたまま・・・
しかし、続く、まだ続く・・・葦のように揺れながら、さすらい続ける。
それはまるで、ベルクホーフの人々の営みそのものだ!
(ベルクホーフ…魔の山の舞台である結核療養所)
魔の山のキーパーソンである合理主義者セテムブリーニは、こういう音楽を「いかがわしい」と言うだろう。
ここで、音楽の「いかがわしい」一面について、
セテムブリーニ氏の見解を引用する。
『音楽が完全に独自の溌溂とした分割の仕方によって時間の流れを目覚まし、精神化し、貴重なものたらしめるということですね。(途中省略)音楽が時間を目ざましめるかぎり…それは倫理的です。しかし、もし芸術がその反対のことをやったらどうでしょうか。人間を麻痺させ、眠りこませて、活動や進歩の邪魔をするとすれば。(途中省略)それは鈍感と頑固と無為と奴隷的沈滞を惹き起す…音楽にはいかがわしいところもあるのです。だから私は音楽にはうさんくさいものがあるという私の意見を撤回するつもりはありません。』(※2)
理性と科学により進歩・発展を目指す者にとって、さすらう事は許しがたい。エンジニアであるハンスに、低地へ戻って実際的な仕事をするように叱咤激励した調子で、セテムブリーニならきっと、シューベルトを諭すだろう。もっと前向きに、困難に打ち勝って発展を!勝利をつかみに行け!と。資本主義に毒された親が子供に、先生が生徒に、スポーツファンが応援するチームに望むように…!
もう一度問う。はたして、シューベルトの最後のソナタはいかがわしいものだろうか?それは鈍感と頑固と無為と奴隷的沈滞を惹き起こさないだろうか?見方によって、「Yes」だと私は思う。同じく、ベルクホーフの暮らしも「Yes」だ。セテムブリーニはその営みを軽蔑し、『亡者どもが酔生夢死の暮らしを送っているこの深淵』(※3)と揶揄したが、実に妙を得ている。
一方忘れてはならないのは、そこでの一連の冒険が、ハンスを精神的世界において生き永らえさせたことだ。シューベルトは…?
さて、このエッセイも終わりに近づいてきた。魔の山のラストシーンに話を進めよう。ハンスは常々、残酷な現実を和らげる『音楽の現実美化に宿る慰めの力』(※4)を非常に好ましく感じていた。突如戦争の最前線という過酷な状況に置かれたハンスが口ずさむのは、シューベルトの菩提樹だ。死の恐怖、極度の疲れ、仲間の戦死。極限の心理状態のなかで、なんとか自分を保つ術が、シューベルトの音楽を口ずさむ事だった。シューベルトにとって、最後の3つのソナタを作曲することは、ハンスが戦地で菩提樹を口ずさむことと、同じ意味を持っていたのではないだろうか。
彼のメロディーの美しさ、パニックに陥っていないときの和声の清純さといったらない。 終わってほしくない・・・そんな気持ちにさせられる。特に20番イ長調ソナタの4楽章や、21番変ロ長調のソナタの1楽章は、 連続再生してループで聴く誘惑にかられる。シューベルト自身、終わりたくなかったのではないかと思うくらい、繰り返しが多く、21番の1楽章はそもそもとても長い!
ハンスが突如見舞われた運命は、世界大戦だった。シューベルトを取り巻いた厳しい現実は何だったのか?
オペラ作家として成功できなかった自分?
貧しい自分?
親族や友人等大切な人を失った自分?
梅毒に侵された自分?(作品の浄書ができた数週間後に彼は亡くなっている)
シューベルトが、最後の3つのソナタで、自分を慰めることが出来たと信じたい。小説の最後、語り手がハンスにかける言葉を。そっくりそのまま、私はシューベルトにかけよう。
『君が味わった肉体と精神の冒険は、君の単純さを高め、君が肉体においてはおそらくこれほど生き永らえるべきではなかったろうに、君をなお精神の世界において生き延びさせてくれたのだ。君は鬼ごっこによって、死と肉体の放縦との中から、予感に充ちて夢の愛が生まれてくる瞬間を経験した。この世界を覆う死の饗宴の中から、雨の夜空が焦がしているあの恐ろしい熱病のような業火の中から、そういうものの中からも、いつかは愛が生まれ出てくるのであろうか?』(※5)
※1 トーマス・マン作/高橋 義孝訳/魔の山 上巻P418より引用
※2 同上 上巻 P242より引用
※3 同上 上巻 P122より引用
※4 同上 下巻 P637より引用
※5 同上 下巻 P790より引用